福岡県・八幡&直方で、炭鉱遺跡や遊郭建築や古い商店街をめぐる

2026年2月14日土曜日

t f B! P L

 

おはようございます。本日はまず長年のオタク友達と酒を浴びてから、北九州をブラつきます

福岡は何度も来てますが、JR九州の電車は個性豊かでおもしろい。毎回ちがうデザインの車両が入線してくる

福岡といえば、以前もドライブで炭鉱遺跡を巡ったように、やはり炭鉱関連施設は行っておきたいもの。というわけでスペースワールド駅で降り、かつて八幡製鉄所で使われていた東田第一高炉へ

かぁっこいいシルエット!本当はもっと近づいて見れるはずが、現在は一帯が封鎖されており遠目から眺めるだけに。この右側の白い建物はなんなんだ

このワクワクする構造物感。六甲山の廃ロープウェイの鉄柱を見た時と似たワクワクがあります

さらに歩き、かつて八幡製鉄所の事務所だった建物の見学へ

こちらがさっき見た東田第一高炉の、建設当時の姿。明治34(1901)年創業、現在残されているのは10代目。これぞ日本の近代産業を支えてきた傑物

こちらが八幡製鐵所の事務所だった建物。立派な煉瓦造り。事務所がこんな建物ということは、いかに八幡製鐵所が国の威信をかけたビッグプロジェクトだったかがわかる

写真中央に見えるのが実物。かつて官営だった八幡製鉄所、現在は民間企業である日本製鉄の一部となっているため通常立ち入りは不可。今もあちこちにレールが敷かれ鋼材が運ばれ、"生きている"巨大工場って感じでかっこいい

へぇ〜京都の蹴上インクラインみたいに当時のポンプ室が残ってるんやなぁと写真パネルを眺めていましたが、この遠賀川(おんががわ)がのちのちキーワードとなることに

友人とバイバイして、本日の宿泊地である八幡駅へ。かっこいい駅舎、2階から上は立体駐車場らしい。鉄道駅舎で上が多層の立駐ってあんまなくないですか、駅ビルの上に屋上駐車場ならよくあるけど。しかし駅まで車で来て電車に乗るなら、究極の合理性といえる

しばし八幡の街中をブラつきます。いきなりイカした建物に出会ってビックリ、調べたら建築家・村野藤吾の設計らしくてさらにビックリ。戦災復興事業の一環として建てられたらしい。両脇にそびえたつ塔部分は、鉄の街らしく溶鉱炉をイメージしてるんだとか

その隣、ここは以前は剣道や武道の道場だった様子。イカしすぎている

こちらは北九州市のマンホール。なんか抽象的でおもしろいデザインやなと思ったら、市の花がヒマワリ。なるほど、ヒマワリの花びらっぽい部分が種っぽく描かれてておもしろい

ところで先ほども戦災復興というワードがでてきましたが、ここ八幡は太平洋戦争末期、昭和20(1945)年8月8日に大空襲を受けた街。B29によって40万発を超える焼夷弾が落とされ、市街地は壊滅。そしてこの地域一帯の丘陵、小伊藤山には防空壕があり、避難してきた市民約300人が窒息死や焼死によってここで死亡した、とのこと。跡地に慰霊碑が建っています

つい最近も神戸の戦災跡地を歩いたけど、大阪京橋駅の空襲犠牲者しかり、公的文書に名前も残っていない無数の市民たちが、日本中で命を落としている

すぐそばのロータリー真ん中には平和記念像が。手を合わせていたらちょうど近くの寺院で六時の鐘が鳴り始め、鐘の音が何度も低く深く響き渡っていた

急に現れたこちらのイカした歩道橋。橋脚が地面に向けてキュッとスマートになっていたり、踊り場みたいなスペースがあったり、遊び心満載。こういうのと出会えるから街歩きはやめられない

おそらくこの地域の象徴的存在であろう皿倉山、存在感がすごい。ケーブルカーがあるらしいので、次は乗ってみたい

地図を見ながら目的地へと歩いていると、大変良き蛇行路が出現。ワクワクしちゃうじゃないか

そして蛇行路の先に現れたのがこちら、旧九州鉄道大蔵線の尾倉橋梁

明治24年(1891年)に開通なので、約130年以上前!

美しき煉瓦積み。これが崩れず曲線を保ってるのが不思議でならない

そして逆側に出てみると、うおお!橋梁のうえに生えるように建つ廃墟群!

最高の絵面。こんなに良い景色が見れるとは思ってなかった。鉄道橋梁としてはすでに廃線化、隧道としては現役、そして周辺には廃屋。時代の層が積み重なっている。最高

良すぎてコスイベでのカメコなみに各アングルから撮ってしまった。これまだ夕方やからよかったけど、夜は普通に怖そう

そびえるように連なる左右の建物群も良い


まさか廃線橋梁を見に来てこんなハイブリッド廃墟景観が拝めるとは思ってなかった。やはり自分の足で歩いて景色を見にくるのが何より大事と感じるISFPなのだった

帰り道にイイ感じの焼き鳥屋さんで、うまいメシとうまい酒をいただきました。福岡県八女の地酒、繁桝。おいしかった

次の日。八幡駅前から眺める朝の皿倉山もすばらしい

八幡駅から本日の目的地、直方まではJRで行けるけど、どうせなら地方鉄道に乗りたいためJR黒崎駅で降り立ち、筑豊電鉄へ乗り換え。これが筑豊電鉄のホーム、駅前ビルから改札なしでつながってます

このホームの雰囲気も、入線してきた車体もめっちゃ路面電車感あるなと思ったら、筑豊電鉄は法規上は鉄道ではあるものの路面電車の車両が走っている、めずらしい鉄道路線なんだとか。かつて西鉄北九州線の路面電車と相互乗り入れしていたからとのこと

車内の雰囲気はまさに路面電車。しかし車窓を見ていただければわかるとおり、なかなかの高さがある高架区間を走行します。なんとなく徳島の阿佐海岸鉄道を思い出させる雰囲気やなと思ってたが、この旅のあとで「筑豊電鉄は路線バスに転換するかも」というニュースを見て、どうなるかわかりませんが電車のうちに乗っといてよかった
地方鉄道はいつ乗れんくなるかわからんから、早めに行っておかねばならない。人口減少による赤字問題もあるし、静岡の大井川鐵道みたいに人気があっても災害で運休になったりするので

こちらが遠賀川。かつて筑豊地方に200近くあった炭鉱から採掘された石炭は、この遠賀川で港まで運ばれ、日本中に届けられた、つまり一部の地域のみならずこの国全体の近代産業の発展を支えた川といえる

終着地、筑豊直方駅に到着。年季の入った煉瓦造りの柱からみて、駅舎はおそらく1959(昭和34)年開業当時のもの?

直方のマンホールは、市の花であるタイサンボク。タイサンボクという名前自体初めて聞いたけど、モクレンの仲間らしい

JR直方駅方面へ向かっていると、あれは!アーケード商店街の予感!

当たりだー!かなり古そうな商店街、天井の照明の形がかわいい、分子構造みたい

大正時代に開業したというお店も

すさき商店街というのかな?日曜の昼間とは思えないひとけのなさ、日本各地でこんなシャッター街を見てきたけど、何度見ても懐かしく、また切なくなる。こないだ神戸の商店街跡地を訪ねた時に書いたように、私も幼い頃、父方の祖母の店があった商店街で過ごしていたので

JR直方駅前には、なにやら立派な建造物が

こちらは旧直方駅にあった車寄せを、移築・再現したもの。こんな立派な車寄せがあったなんて、当時の駅舎は相当大きかったんやろなと想像してましたが、のちのち石炭記念館でボランティアさんに聞いたところによるとその通り、地方都市の駅とは思えない規模のものだったらしい

かつて栄えた街の名残は、先ほどの商店街同様、駅前の廃ビルからも感じることができます。しかもビルの壁に横の家が剥がされた跡が残ってて、とても良いトマソン

めちゃくちゃ良いスナックビルの廃墟も

こんな紅色の外壁なかなか見ないと思ってたら、どうやら古い建物を赤い壁材で囲ってる様子。ナイスな改築

跨線橋で駅の反対側へ。複線化され貨物線が並び、ここが筑豊地区の石炭輸送中心地だった頃の繁栄っぷりを感じさせてくれる

留置されている車両も。ほんまに物と鉄道と人が行き交う基地で、「筑豊の首都」やったんやろなぁ

駅前から斜面をのぼるようにして住宅街を歩いていくと、イケてる集合住宅が。こういうコーポで、円柱のあるデザインってなかなか見ないし、後ろ側の螺旋階段も最高。当時のオシャレ建築最前線って感じ

そしてこの日わざわざ直方にまでやって来た理由である、二字町遊廓の門前に到着。いままで飛田新地吉原遊廓で門跡を見てきたが、ここまではっきり門柱が残ってるのは相当珍しいというか、やはり地方都市だからこそ残ってる遺構な気がする
そして地方都市とはいっても、この遊郭がいかに格が高い場所だったかがわかる立派な門柱

遊郭跡地を歩きます。完全なる廃屋ですが、窓や玄関が色っぽい雰囲気

二字町遊廓は、炭鉱夫や石炭マネーで儲けた人々を相手に栄えた色街。歴史を紐解けば遊郭の誕生も当然で、
1891(明治24)年…筑豊興業鉄道によって鉄道線が開通、直方の近代化が進む
1904(明治37)年…日露戦争の開戦、直方に空前の石炭景気に到来
1908(明治41)年…私設遊郭や私娼の氾濫を憂慮し、有志たちが福岡県に訴えて公設遊郭の許しを得る
大正期には妓楼10軒以上、娼妓200人以上と賑わい、女たちのための診療所や養成所といった施設も備えていたらしい。『日本都市大観 昭和11年版』にも「娼妓百三十六」と記載されてますが、戦後は赤線化し、石炭産業の終わりとともに廃れていったとのこと
遊郭跡地を歩き回ってる時に、たまたま通りすがったご年配の方々のお話が耳に入り、一人のおじいさんは賑やかだった頃の二字町界隈をご存知の様子で、そういう方々にとって街の衰退はせつないものがあるやろうなと勝手にしみじみ

廃屋の二階に猫ちゃんを発見。そこに住んでるの?大丈夫?食べるものある?といろいろ話しかけてしまった

めっちゃこっち見てる。かわゆい

で、本日のメインイベント。二字町遊郭で唯一現存する妓楼建築、一心楼の一般公開にやってきました。すぅーーごい立派な建物!

一心楼は伝承&調査によると、1916(大正5)年開業。当初から遊郭として建てられ、1958(昭和33)年の売春防止法以降はアパートとして使われてたとのこと。そのへんの変遷は奈良の洞泉寺遊郭で見学した川本楼と似ている

こちらは表門で、客ではなく楼主たちの出入りに使われた玄関。漆喰壁の欄間に配された竹材が大変シャレとる

今回はこちらの玄関の中には入れませんでしたが、外観だけで十分に格式の高さを感じられる

一心楼は何度か増改築を繰り返してるようで、こちらは増築部分。アパート経営時には、二階の窓から当時の住人たちが顔を出してたんやろな

無秩序に出っ張ったり引っ込んだりしてる感じが、増改築の歴史を感じられて楽しい。私の祖父が大工さんで、祖父の家も私の家もいろんな増改築されてきたから、こんなふうに建物の変化の歴史が見て取れる感じが好きなのかも

ようやく内部へ。客用の出入り口も非常に立派でしたが、なんせ見学客の方がたくさんいらっしゃってて写真撮れなかった。ニュースによると350人ほどが足を運んだようで、大盛況

客用玄関を入ってすぐの大階段。ここを幾人の遊客と遊女が行き来したのか、アパートになってからはそんなことを想像しつつ暮らしてた住人たちもおったやろな

玄関を入って真正面。さすが高級遊郭、品と趣にあふれている

玄関を入ってすぐ横にあるのが「張見世」と呼ばれる部屋。ここに娼妓が控えていて顔を見せ、訪れた客たちはどの娼妓と遊ぶか決めたのだそう。注目すべきは朱塗りの戸板、こちらは遊郭時代からのもの

内部に入っていくと、細かい廊下や唐突な階段がいくつもあって、まさに迷路。そもそもは客同士や従業員が顔を合わせないためにですが、おかげで探索するのがめちゃくちゃ楽しい

こちらの部屋にも艶っぽい朱塗りの戸板が

シャレたガラス戸もございます


本当に迷路。どこをどう歩いてるのか、初見では把握できない



見事な細工。惚れ惚れしちゃう

ややのぼるのに勇気がいる階段。のぼれましたが。ギシギシすごかった

急に土間のような部分が現れたり。ここが増築の繋ぎ目部分と思われる



洗面所も抜かりなくオシャレ

お風呂場はこだわりのタイル貼り


アパートとして使われていただけあって、水回りが更新されており、ボロボロにならずきれいに保存されています。風雨と時間の波にさらされ朽ちていく姿も良いものですが

ようやく2階に上がってきました。2階は娼妓と客たちが遊ぶ場として、大小多くの部屋に仕切られています

窓の向こうには増築部分が

たまらない眺め。アパート時代の住人たちは、毎日こんな景色を見て過ごしてたんやろな。こういう場所を舞台にした住人たちの話を書きたくなった。元遊郭に住む老若男女の物語

屋根瓦が迫る窓辺。雨の日はなかなかすごいことになりそう、雨水とか雨音とか

奥のツギハギ増築感、たまらないな〜〜!

2階はこのように、メイン廊下で各部屋がつながっております

ここにも朱塗りの戸板

美しい建具も

2階の中でも一番広い部屋が「散財部屋」。いいネーミング

いわゆる宴会場というか、広々としていて窓も多く開放感抜群。遊郭全盛期は周囲の店からも明かりがあふれ、さぞ華やかやったやろな

床の間。下部の千鳥格子がすばらしい

縁側の板敷もシャレとる

窓辺はこんな景色。この下の道を行き来する、遊客や酔客の姿が浮かんできそう

客用玄関入ってすぐの大階段を見下ろす眺め。昔の階段だけあって、なかなかの角度

大階段上がってすぐの手すりも、年季が入ってて良い感じ

こんな建物に住むのって、どんだけワクワクするやろ。もちろん不便はたくさんあるやろけど、何よりも歴史があって趣があって、現代的なアパートじゃありえない空気感がすばらしい

しかし2階にもまだまだ奥があった


増築部分だからか、同じ2階なのに謎の段差があります

このように。こんなの楽しすぎる。ちょっと岩手の台温泉で泊まった旅館を思い出させる雰囲気

階段がこっちにもあっちにも

繰り返しになりますが、こんなところに住むの本当にワクワクしちゃうな

1階に戻りまして、初見探索では辿り着けていなかった炊事場へ。客用の料理は近隣の料理店から運んできていたため、ここでは娼妓や楼主家族の食事が作られていたらしい。何人ぐらいの女性が働いてたんやろ、かなり広い炊事場なので従業員数が気になった

天井には四角錐型の排気口が。こういう構造が残されているのはレアとのこと

階段の横には「この窓からタバコの吸い殻を捨てるな」の貼り紙が。きっとアパート時代にポイ捨てしてる住人がおったんやろな

ここも欄間や建具の細工が見事

いただいた資料に載っていた、建物調査時の平面図。圧巻の迷路っぷり

2階はメイン廊下があるのでまだわかりやすいが、それにしたってこんなに部屋数があったとは

めちゃくちゃ立派な妓楼建築、見学させてもらって幸福でした。かつては遊郭といえば街の人にとって抹消したい負の歴史的な見方があったが、今はここ一心楼や京都の橋本遊郭のように、建物を買い取って保存・活用していこうという動きがあり、こうして見学できる機会が設けられるのはありがたいこと

で、ようやく二字町遊郭を離れ、駅方面へ戻っていく途上、なにやら良い雰囲気の長屋が

パンやコーヒーを売っていたり、雑貨屋のような店があったり、どうやら古い長屋をリノベして活用している様子。京都のあじき路地的な
ここ、一心楼からも近くて雰囲気抜群なのに、一心楼の見学客は車で来ている方が多かったため、この長屋がスルーされがちになっててもったいなかった。この後に行った石炭記念館もですが、せっかく一心楼に注目が集まっているなら、駐車場を駅前とかに設定して、徒歩の導線つくればこのリノベ長屋や石炭記念館にもっと人を呼べるんじゃないかと勝手に思ってしまった。直方、とても良い街やから、いろんな人に歩いて見て回ってほしい

ところで上記の長屋があるあたりは門前町となっていて、古いお寺の門前とかやったんかな?と思ってましたが、どうやら直方藩の藩主・黒田長清の館があったらしい。城郭ではなく御殿・陣屋という形で、敷地にいくつか門があり、それで「門前町」
ていうか直方藩って黒田家やったんやな。たどっていけば祖先は黒田官兵衛。官兵衛が播磨の人なので、播州姫路にルーツを持つ私はかなり親近感がある

御館跡を通り謎にいい感じの橋をくぐって、さらに奥へ

せっかく炭鉱の街に来たなら行っておかねばならない、石炭記念館。さっそく蒸気機関車がドーンと、しかも二両!こちらは大正14年にドイツから輸入した機関車で、昭和51年の閉山まで52年間走り続けた働き者

資料館ではボランティアさんが丁寧に説明をしてくださいました。そもそも「筑豊」という言葉は、「筑前」と「豊前」にまたがる石炭採掘エリアを総合して付けられた名前
明治維新後の鉱山解放令により、このエリアでは小規模炭坑が乱立。乱掘・乱売が問題となったため、各郡ごとに組合の設立が進み、それらが1885年に統合され「筑前国豊前国石炭坑業組合」=「筑豊石炭坑業組合」が成立。筑前と豊前の頭文字を取り、「筑豊」という名称が初めて使われた、という経緯。くしくも遊郭の成立と同じ歩みなのがおもしろい、乱発によって公式に統合されていく流れ

明治期には全国の石炭生産量の半分を、ここ筑豊エリアが担っていたというからすごい。その間に八幡製鉄所も創設されてるようです

特におもしろかったのが、この施設。炭鉱内で事故が起きた時のための救護訓練用の模擬坑道。実際にここ石炭記念館のすぐ外にあります

救護訓練の様子。こんな施設があったなんてすごい、山口県宇部の石炭記念館でもこんなの見なかった!と言ったら、ボランティアさんいわく宇部は石炭記念館第一号とのこと

炭鉱で働く人々の様子。女性たちもいて、しかも上半身裸。明治期までは普通に女性も働いていたようで、坑内で出産したり赤子にお乳あげたりもしてたらしく、もちろんそうせざるをえない状況だったからですが、さすがたくましさが違う

ラピュタ冒頭でパズーが操作してたやつ!しかも右下にOSAKAとあるので、大阪のメーカーっぽい。いろんな機械を眺めながらはしゃいでいたら、別のボランティアさんにも「なんで来たの?こういうの好きなの?」と話しかけられ、なんでと聞かれると説明が難しいが、近代産業遺産とかが好きでぇ…あと人間の造り出したデカくてスゲーもんが好きでぇ…

筑豊地区での石炭採掘の歴史は、なんと1478年にまで遡るらしい。「燃える石」として知られ、百姓やきこり達が燃料や灯火がわりにしていたんだとか。最初は不思議なものとして扱われたやろな、山の神様の一部だとか、火の神様が宿ってるとか

ところで石炭産業と遊郭の結びつきは明らかなのに、石炭記念館にぜんぜん遊郭に関する資料がないなと思ってたら、昔の鳥瞰図に「二字町遊郭」の文字が!やはり高台に位置していることで、地理的に隔離されてたんやな。だいたいの遊郭は溝や壁によって隔離されてたりするので。大阪の貝塚遊郭はあまりに駅前からシームレスに繋がっててビックリしたけど

こっちにも公設遊郭という表記

初代直方駅の写真も。あの立派な車寄せがあった時代、さすが駅舎も立派。あと古写真見てていつも思うが、日本の道って昔からきれい

すごい線路の数!SLの蒸気で烟った空気が漂ってきそう

筑豊にかつてあった炭鉱。毛細血管のように広がった鉄道網が直方に集結し、港まで石炭を輸送していたのがよくわかる

では一旦外に出て、さきほど写真資料で見た救護訓練用施設の見学へ

斜面に沿って造られた模擬坑道。わざわざこういうのを造って対策するほど、炭鉱事故って多かったんやろな

全国から炭鉱労働者が集まって、救護訓練をしていたとのこと。今でも時々、坑道内に入る見学会をやっているらしいです

頂上には慰霊碑

そしてもうひとつの建物へ。こちらは1910(明治43)年に建設された、筑豊石炭鉱業組合直方会議所。筑豊地区を代表する炭鉱王たちや、三井、三菱、住友といった大財閥の炭鉱関係者たちが集まり、石炭の価格調整や採炭量、技術教育について話し合われてたとのこと
で、ここから二字町遊郭はすぐそば。つまりそういうことかなと想像がつきます。会議後の接待でのどんちゃん騒ぎまで目に浮かぶ

会議所内は当時のおもかげを残しています。天井がすばらしい。贅沢な木材の使い方
建物内に展示されている炭鉱関連資料はすべて本物で、レプリカはないとのこと。実際に使われていたものがそのまま展示されています。これは地味にすごい

救命器がたくさん展示されているのも、救護訓練施設があるこの場所ならでは。それにしても重そうな救命器。10kgほどの装備だったらしい。これを背負って狭く勾配のきつい坑内を進まないといけないなんて、とんでもない重労働

酸素呼吸器、こんなところにも川崎航空機工業のしかも神戸製作所の文字。現在の川崎重工です。熊本の菊池飛行場ミュージアムで川崎製のプロペラと出会った時と同じく、遠く離れた地で故郷にゆかりのあるものを見つけると嬉しい

鉄道が発達する以前は、川ひらたと呼ばれる運搬船に石炭を載せ、遠賀川で輸送していたとのこと。いかに遠賀川が重要な存在だったかがわかる

資料館のボランティアさんが注目して見てねとおっしゃっていた、ドアノブ。花の刻印がされ、大変華やか。現代式の横長のレバーハンドルが使われ出したのって、戦後1970年代かららしい

こうやってみると炭鉱ってすごいなーというアホみたいな感想しかでてこないが、アリの巣のように張り巡らされた坑道にワクワクする。中に入りたくはないが。怖いから

竪坑内部、こんなふうになってるのか。大阪や東京にあるいわゆる「地下神殿」と呼ばれる治水設備もやけど、地面の下にこんだけの空間が広がってると思うと大変ロマンがある。諸星大二郎の漫画でも「富士山の地下に巨大な空間がある」的設定あったな。すきあらばすぐ諸星大二郎の話する!

炭鉱で働く人々をえがいた絵画も展示されてました。画面右下の女性が赤ん坊にお乳をあげてます。坑内で生まれ育ったっていう子供もおったやろな

2階から模擬坑道がよく見えました。山の中腹内部にまで繋がってるらしい

展示品もおもしろいけど、建物自体がすばらしいから目移りしてしまう

この手すりも品格を感じる美しさ。炭鉱王や大財閥の人たちが集っていた場所なだけある

屋外にもいろいろと展示物が。おそらく「平山第一坑」と書かれた扁額。よく古い隧道とかに残されてるが、坑道にも扁額があったんやな
平山第一坑について国立国会図書館デジタルコレクションで調べたら、「1934年(昭和9) 4.23 明治平山第一坑,局部扇風機のケーブルがスパーク,ガスに引火しガス炭塵爆発. 死者12人,負傷者7人.」の記述があり、あらためて救護訓練活動の大切さを思い知った。記念館の中にも全国の炭鉱事故史が展示されてましたが、ダム建設や鉄道敷設も含め、産業の発展の裏には無数の犠牲があることをまざまざと感じさせられる

こちらは国産のSL。昭和16年から昭和45年までの30年間、石炭輸送で活躍したとのこと

石炭記念館をあとにし、再び跨線橋を渡って駅側に戻ってくると、なぜか神社の入り口から出てくることに。知らぬ間に境内にインしていた。鳥居に刻まれた明治27年の文字、日清戦争開戦の年で、直方はまさに石炭バブルに沸いていた時代

マンホールに描かれていたタイサンボクの、でっかいバージョンを路面で発見。こんなに市の花が推されてるのもめずらしいというか、わりと初めて見たかも

電車の時間までに昼飯をと思い、近隣のラーメン屋へ。小倉にあったラーメン屋の味を引き継いだお店とのこと

ラーメンはもちろん、鉄フライパンで供される炒飯がめっちゃ美味しかった

メシも堪能したし電車が来るまで軽く駅前を見て回るかーという感じでしたが、やはりかつて栄えた街は目も心も惹かれる建物が多く、電車を一本遅らせることに。なんですかぁこのクセありデザインの建物はぁ?最高です

こっちが客用玄関?扉の木枠といい庇を支える円柱といい、こだわりがすごい

そして目に入ったのはこちらの素晴らしきアーケード装飾!

これはすごい。川崎の銀柳街もすごかったが、ドーム型装飾でいえばここが一番かも

日曜の真っ昼間だというのに、シャッター街っぷりもすごかった。岐阜の柳ヶ瀬商店街とか岡山県津山の商店街とか、地方のシャッター商店街いろいろと見てきたけど、ここはアーケードが立派なだけに、栄枯盛衰の落差を一番大きく感じた

古くからの商店街あるある、店ごとの二階部分が個性的

店内には、当時のモード服がマネキンとともに置き去りに

かわいいタイル張り。何より角地ならではのアールをえがいてるのがいい

天井からぶら下がるなんらかのコード。かなり"終わっている"場所感がある

昭和情緒たっぷりのフォント

本当に立派なアーケード。シャッターも色とりどり。このカラフルさが逆に寂しさを引き立てている



何度見てもすばらしいドーム。何度でも写真撮っちゃう


椅子に置かれたおそらく店名の立体文字、芸術点が高い

商店街に接する大きな建物、こちらも飲食店とかが入ってた商業施設っぽいです。一応、一部営業していたり住んでる方がいらっしゃるっぽい

二階に上がると、商店街のアーケードの屋根が見えました

しかしここの階段も、一心楼の木造階段なみに怖かった。床が抜けそうで

本通りから枝分かれした方のアーケードも美しい

ここは「はいから通り」らしいです。明治・大正期に栄えた炭鉱の街にふさわしいネーミング。こういう機会がなければ一生来なかったかもしれない土地。めちゃくちゃ楽しみました

おしまい

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