比叡山と雄琴温泉。昭和モダニズムな駅舎、戦争の痕跡、風俗街の一端をのぞき見る

2026年8月8日土曜日

旅

t f B! P L

 

おはようございます。本日は前々から行ってみたかった比叡山と、雄琴温泉の風俗街を目指します。まずは叡山電鉄の出町柳駅を出発

駅舎の外観は更新されてますが、ホームは昔のままの雰囲気があります。この柱なんかもまさに。剥き出しのリベットが無骨な雰囲気
駅の開業は大正14(1925)年、当時は琵琶湖疏水を使った日本初の水力発電会社「京都電燈」による鉄道事業だったらしく、滋賀から京都まで山越えして琵琶湖疏水を歩いたことがある私としてはアツい話

八瀬比叡山口駅に到着。屋根を支える鉄骨構造がかっちょいい〜!これから始まる旅へのワクワクをかき立ててくれる系駅舎

風格ある橋から川に飛び込む人々が多数。夏やねぇ

叡山ケーブルの八瀬駅に到着。こちらの開業も叡山電鉄と同じく1925(大正14)年
今まで乗ったケーブルカーの中では、奈良の生駒ケーブルカーが1913年、兵庫の摩耶ケーブルカーが1925年、同じく兵庫の六甲ケーブルカーが1932年。それぞれが戦争や災害を経験しながらも、今なお生き残ってるのはすごいこと。信貴山のケーブルカー廃線跡を歩いたことがあるので、余計にそう感じる

叡山ケーブルも去年100周年だったそうで、しかも改修はされてるが駅舎は開業当時のままとのこと。木材のひとつひとつに、使い込まれてきた磨きと渋みがある

乗り場の雰囲気がまた抜群に良い

この丸ゴシックもたまらんやないか

おわかりいただけますでしょうか、この勾配っぷり。奥のドア向こうに見える手すりの角度が、いかに急斜面であるかを物語っております。それもそのはず、叡山ケーブルは標高差561mで、日本一を誇るとのこと

運転席真後ろからの景色。この緑の中を突っ切り、山の斜面を這い上がっていくんやから、ケーブルカーってマジカッコイイ。日本語だと「鋼索鉄道」って書くあたりもカッコイイ

車内はお客さんでいっぱい。天井にも緑が映り込んで、まるで四方八方を山に囲まれてる感覚

終点の比叡駅。ケーブルを巻き取るドラムが剥き出しで、じっくり眺められてありがたい

ここはまだ山の中腹ですが、すでに眺めが抜群。かわらけ投げ用の輪っかの向こうに、京都市街が見えます

そして叡山ロープウェイに乗り継ぎ。1928年開業、日本では最初期のロープウェイだったらしいですが、やはり太平洋戦争の激化を受け、1944年にレールや鉄塔が金属供出で回収されてしまい運転停止、1956年に営業再開したとのこと

こちらも味わいたっぷりの丸ゴシックフォント

しかも窓から動力部を覗き見ることができました。竪坑っぽくてかっこいい。あちこちにかけられたハシゴも、構造物フェチにはたまらんぞ

ロープウェイに乗っている最中の景色もめちゃくちゃ良かったんですが、お客さんでいっぱいだったので写真は撮れず。約3分で山頂に到着

駅舎からでもすばらしい眺め。眺めが良いってことは山が険しいってことで、昔はこれを己の足で登ってくるしかなかったことを思えば、ここまで連れて来てくれて本当にありがとうケーブルカーとロープウェイ

見返したら切符のパンチ穴がかわいかった

山頂展望台にはシカが何頭か。シカだけじゃなくクマの目撃情報もあって、本当はここから歩いて延暦寺まで行けるんですが、クマに遭遇するのが怖すぎてバスを使うことに

展望台からは琵琶湖が一望。しかし何度見てもデカい湖やな。昔は「海」と呼ばれていただけある

バスに乗って延暦寺に向かう途上、かなりダイナミック運転でおもしろかった。車窓を見ていただければわかりますが、結構な下り坂を右に左にくねって曲がって進んでいきます

ついに延暦寺に到着。以前、和歌山県にある高野山の奥之院に行ったときも、なんて遠い道のりや…と感じたが、昔の人たちはこの道程を歩いて熱心にお参りに通ったりしてたんやから、本当にすごい
今回、延暦寺に来たのも、去年亡くなった祖母が天台宗で、葬式や法事で念仏を唱えたり、今まさに比叡山で修行中というお坊さんと話す機会があって、いいタイミングと思い訪れた次第

境内に入ってすぐさま、かっこいい消防車と遭遇。延暦寺特別仕様?寺社仏閣は木造建築が多いから、防火対策も大変そう。歴史的に比叡山は、織田信長の焼き討ちに遭ったりもしてるので。それだけ延暦寺の僧兵や政治的・軍事的影響力が強かったわけですが

僧侶たちの学問修行の場である大講堂。内部は撮影禁止でしたが、たくさんのデケェ肖像画や仏像があって壮観でした

立派な建物が多い中でも、こういう小さなお地蔵さん?石仏?があるの、大変良い

こちらは延暦寺の総本堂である根本中堂。これまで焼き討ちやら災害やらで何度も壊滅的被害を受けたようですが、「徳川家光の命によって1634年に再建スタート、1640年に完成した」のが現在の建物らしく、改めて日本の木造建築は長寿
現在は大改修中で、なんと改修中の様子を見せてくれるという太っ腹っぷり。この写真のように工事用の足場から眺められます

大屋根も圧巻やけど、そもそも建物全体を完全に覆ってしまう巨大さで、かつ頑強に組まれた鉄骨がすごすぎる。国宝を傷つけることなく、安全に改修を進めるためなんやろうけど、この工事足場の見事さはまさしく現代建築の粋。勝手に頭の中でプロジェクトXの音楽が流れてきた

根本中堂のすぐそばには、宮沢賢治の碑が。賢治が父親と延暦寺を参詣したときに詠んだ歌とのこと
そういえば宮沢賢治って熱心な仏教徒やったもんなーなどと思い出したりしてましたが、当時の彼らの父子関係はもっと深刻な状況だったらしく、父は浄土真宗、賢治は法華経を信仰し、宗教対立していたと。賢治が実家を飛び出し、東京で宗教活動に没頭していたところ、心配した父が関西旅行に誘い、一緒に延暦寺を参詣。父はおそらく「親鸞も日蓮も若い時にここで修行した、どちらの宗派も同じルーツを持つものだ」と感じさせたかったのではないか、とのこと
そういう流れがあったとはおもしろい。オヤジに説得されてなるものかと不貞腐れ顔で比叡山を歩く賢治の姿が思い浮かぶ

私は京都側から来ましたが、表参道である滋賀側から登ってきた参拝客が最初にくぐることになる延暦寺の山門が、こちらの文殊楼。二階部分には文殊菩薩という神様が祀られてるらしい。そらこんだけ立派な造りになるな

えらく趣深い建物があるなと思ったら、こちらの大書院、皇族や要人のための迎賓館とのこと。しかももともとは大正時代に「煙草王」と呼ばれた実業家・村井吉兵衛が、東京赤坂に建てた大邸宅の一部を移築したものらしく、赤坂なんて超一等地にこんな豪邸があったのもすごいし、東京からわざわざ比叡山まで運んだのもすごい
内部は通常非公開ですが、特別見学会もあるらしく、ぜひお邪魔してみたい

歩き疲れたのでソフトクリームで小休止。私が歩いたのは延暦寺の東塔エリアで、他にも2つ主要なエリアがあるんですが、この時点ですでにケーブルカーの最終時刻が迫っており、舐めてました比叡山。広すぎる

というわけで下山するため、ケーブルカーまで歩きます
実は比叡山に来たかったのにはもうひとつ理由があって、太平洋戦争末期の1945年、ここに日本海軍の特攻兵器「桜花」の秘密発射基地が建設されていたと知ったから。「桜花」は車輪もプロペラもなく、一度発射したら搭乗員もろとも敵機に突っ込むしかない、人間ミサイル。そんな兵器に乗り込んで特攻するため、搭乗員たちは延暦寺の宿坊に泊まり、出撃の時を待っていたものの、実戦配備前に終戦を迎えたことで、桜花が比叡山を飛び立つことはなかったと
基地はアメリカ進駐軍が爆破したため跡形もないですが、おそらく東塔エリアの南側にあったとのことで、ちょうど私が歩いているあたり。少なくとも桜花の搭乗員たちは、日夜この比叡山から望む琵琶湖の景色を見ていたやろうな。山肌を眺め、二度と帰れない故郷を想うこともあったやろう
産経新聞や滋賀報知新聞の記事に、当時の写真が載ってました

そしてまさに桜花基地建設のため軍に接収されていた坂本ケーブルの延暦寺駅に着くと、どぅえええ!?めちゃくちゃいい駅舎!!

1927(昭和2)年開業当時のままの建物は、もちろん登録有形文化財とのことで、六甲ケーブルの山頂駅といい、山の中に予期せぬ名建築はハッピーサプライズすぎる

内部もご覧の雰囲気。壁から天井に向かう柱のアールがたまらんね

切符売り場も昭和そのままの空気感

よく見れば柱などのいろんな角っこに木製の飾りが取り付けられていて、派手じゃないのに豪奢な感じ

乗車口もこのような美しさ。かつて特攻兵器の基地建設のため、鋼材や爆弾が運び込まれていた場所でもある

二階には展望テラスがあったみたいです。この階段も、あ〜〜たまらん
二階がどんな風になってるのか見てみたかったなーと思ってたら、Xのポストで写真を発見。広々とした貴賓室だった様子。ケーブルカーの駅舎に貴賓室ってすごいな、そういう部屋に案内されるような人たちもケーブルカーを使ってたってことやもんな

改めてこちらが正面玄関。「延暦寺驛」の字、味わい深すぎる

昭和2年にこの佇まいが完成していたとは。当時はケーブルカーで山を登るのも最先端の観光やったやろうし、それに見合ったモダンな建物を、ということだったんでしょうね

眺望も見事。海のようにデケェ琵琶湖

ドアひとつとってもデザインが洗練されとる

ようやくケーブルカーに乗り込みます。行きの叡山ケーブルに劣らない、転がり落ちそうな急斜面

車窓からの眺めも最高でした。山に囲まれつつ市街を見下ろす景色って、ケーブルカーやロープウェイならではの特別感

坂本ケーブルは全長2,025mで日本一の長さのため、途中駅が2か所も存在します。あらかじめ申告すれば下車できるらしい。してみたい気持ち半分、こんな山中に置いていかれる怖さ半分
ここは「もたて山駅」で、もうひとつの「ほうらい丘」駅には、大量の石仏が安置されている岩窟があり、車内からも一瞬見ることができました。ケーブルカー建設時に出土したもので、おそらく比叡山焼き討ちの犠牲者たちを弔うためのものじゃないかとのこと。さすが霊山

3回ほど隧道の中を通るご褒美つき。どんなテーマパークのアトラクションよりも興奮してしまう

麓に到着。木々の緑が車体に迫るように覆い被さってるのが美しい

駅舎に入るとため息もの、こちらもやはり1927(昭和2)年の開業当時の建物とのこと

照明や柱のデザインに気品があって、開業当時、いかにケーブルカーが贅沢な観光体験だったかがわかる

もちろん登録有形文化財。やはり「坂本驛」と旧字体なのもうれしい。二階が比叡山鉄道の本社らしく、毎日こんな建物に出勤できるの、ええなぁ。もちろん古い建物ならではの悩みもあるでしょうけど、冬すごい寒いとか立て付け悪いとか

坂本駅を出てすぐ、イイ感じの橋を発見。なにげなく調べてみたら、なんと1623(元和9)年にあの天海によって造られた橋らしい!ええー!!もっとよく見ておけばよかった!
「権現橋」と呼ばれるこちらの橋、実はこの先にある日吉東照宮への参拝道。1571年、織田信長の比叡山焼き討ちで壊滅した延暦寺とその門前町である坂本は、徳川家康の側近である天海の総指揮のもと復興が進められ、家康没後には「関西の日光」となる日吉東照宮をこの地に創建。家康は「東照大権現」という神様になったため、参道の橋が「権現橋」と名付けられたとのこと
まさかの天海!戦国BASARAで大好きだったキャラで、コスプレまでした思い出。CV速水奨さん。あれから時を経て、まさか速水さんのラップが聴ける時代になるとは思わんかったよね

日吉東照宮までの途上の寺院には、「ビルマ釈尊像」の文字が。ビルマといえば太平洋戦争の激戦地のひとつ。戦後、住職の方がビルマに留学して持ち帰ったお釈迦様が祀られているらしい

さらにくだると、これぞ表参道の延暦寺の石碑。そのすぐとなりには日吉東照宮があって、こうやって神社とお寺がごく当たり前に並んで信仰されてるの、日本ならではって感じ

それにしても先ほどから、見事な石積みが目を引きます。このあたりには穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が住んでいて、もともと寺院の建設に関わっていたが、その見事な技術から安土城の石垣造りを任され、以降、江戸時代にいたるまで全国の城郭で穴太衆の指揮のもと石垣が築かれたらしい

石畳と木陰の織りなす色彩が美しい
でも比叡山からケーブルカーで降りてきた人のほとんどはバスに乗ってしまい、この辺りを歩いてる人がまったくいなくて、もったいないなぁと思ってしまった。もちろん体力的に無理とかはありますが、バスや車じゃなく、歩くことで発見できる景色や楽しさがいろいろあるとは福岡県・直方でも感じたこと。他人にそうしろと押し付ける気は一切ないが、私自身は歩けるだけ歩きたい

途上にあった校門、タイル貼りで石部分が苔むしててめっちゃかっこいいなと思ったら、1873(明治6)年創立の学校らしい。名前からして歴史ありそうではあったが、思ってたよりもすっごい

お地蔵さんの祠の石垣も、石を自然のまま加工せずに積み上げる穴太積みっぽくて素敵

日吉東照宮の参道鳥居と比叡山。古くからの信仰を感じられて楽しかった

めちゃくちゃ気になった道標。「頬焼」とは強烈なネーミングやなと思いましたが、意外と全国的に見られるようで、いわゆる身代わり地蔵的なことらしいです
ざっくりといえば「昔、ここ坂本に暮らしていた猟師が、大雨のときに自分の笠をお地蔵様にかぶせてあげた。漁師は死後、地獄の業火で身を焼かれることになったが、一人の僧侶が現れ、身代わりとなって漁師を救い出した。奇跡的に生き返った漁師がお礼に駆けつけると、お地蔵様の頬の半分が焼けただれていた」という話

こちらも日吉東照宮の参道沿いにあった立派なお蕎麦屋さん。格子の細やかさ、屋根の上の木材看板とドデカ看板、二階の肘掛け欄干、どれもめちゃくちゃ良い

2階の欄間に「おぐらや」という文字が。この建物、江戸時代は参拝客相手の旅宿、明治以降は「小倉屋」という名の土産物屋になり、現在は蕎麦屋さんとなっているらしい。店が変わっても建物が受け継がれてるの、すばらしいな。メンテ大変やろうに。まだ営業中なら入りたかった

振り返ってみると、比叡山の麓からだいぶ歩いてきました。電柱や車道は新しくなっていても、門前町の残影を感じられる良い景色

さらにもうひとつ特大の鳥居があった。よっぽど信仰と権力を集めていた場所なんやな、日吉神社

お待たせしました、本日のマンホールです。要素もりもり!琵琶湖の花火や遊覧船や、なにがしかのキャラクターたちもいる。入れたいもの全部入れたった感、好き

駅近くまで歩いてきたらもう夕方だったので、ご褒美の一杯とおいしいアテで優勝させていただきました。滋賀の地酒、おいしかった。「浪乃音 (なみのおと)」という風流な名前

JR比叡山坂本駅のホームに上がったら、ちょうど夕暮れ時でいい眺め。完全に体感でしかないが、琵琶湖付近のJR駅舎って高架が多くて、景色良いとこ多い気がします

この駅からも琵琶湖が見える。今ちょうど真継伸彦の「鮫」を読んでおり、鮫が故郷の越前を離れ、飢えと寒さに苦しみながら京を目指して歩いたのはこのへんかも、などと想像するなどした

一駅北上し、おごと温泉駅に到着。温泉駅らしいロゴマークがお出迎え

バスに乗って本日の宿泊ホテルに着いてみれば、ロビーには何やらどえらいアンティーク家具が

眺めもすばらしく、琵琶湖一望。この贅沢な空間づくり、あきらかにバブル期の匂いがする
と思って調べたら、建物は1967(昭和42)年竣工とまさに高度成長期。その後、天下一品グループが買い取ってリノベしたようですが、でもほら、窓に垂れ下がるカーテンも天井の照明器具も、めちゃくちゃ昭和の香りがします。そのまま残してくれてありがとう天下一品さん

ロビーだけじゃなく廊下の雰囲気もこのとおり。個性的で上品な照明器具といい、絵画が飾られているところといい、昭和のホテルのお手本のよう。最高です

ホテルにはでっかい温泉スパリゾート施設が併設されていて、そっちにもどえらい柱時計が

なんかオルガン?みたいなものもあって、バブルすぎる。カネのジャブついてる感がすごい

翌日。今回わざわざ雄琴温泉に泊まったのには温泉以外にも目的があって、雄琴温泉の周辺にある有名なソープ街に行ってみたかったからです
ただし東京の吉原遊廓や大阪の飛田・松島新地と同様、現役ばりばりの風俗街なので、店やお客さんの邪魔にならんよう朝早くに来てみたら、ちょっとしたゴーストタウン感があって大変よい。奥が見えにくいよう、道がカーブしているのもポイント。まさに吉原遊廓の衣紋坂のよう

さきほどは「シルクロード」で、こちらの通りは「ゴールデンゲート」。やっぱり道がゆるやかなカーブをえがいておる。本当は通りを歩きたかったけど人影がちらほらあったので、周囲を探索するのみにしときました

それにしても風俗街にはおもしろい建築物が多い。これはいったい何屋さんなんや

ドデカいソープランドの建物、改装中のようですがネットで調べてみたらけっこう有名な豪華建築らしい。見てみたかったな

川沿いにもずらっと建物が並び、夜はかなりネオン華やかなんやろなと想像できる。というかこんな朝でも車がたくさんあったし、黒服がうろついていたので、さすが現役のソープ街。いつかゆっくり散策させてほしい

県道に沿って歩き始めると、緑豊かな田畑、遠く琵琶湖の水平線、そして左手には風俗街の奇妙にオモチャじみた建物群。こういう混沌さ、大好物

道路脇になにやら立派な常夜灯のようなものを発見

調べたら幕末の弘化4(1847)年、伊勢講の一つ「苗鹿講」が寄付をつのって建立したものとのこと。伊勢講ってのはお伊勢参りのひとつで、講(グループ)で毎月お金を積み立てて、くじ引きや話し合いでその年のお伊勢参り旅行に行ける人たちを決定する仕組み。こんだけ立派な常夜灯が建てられるほど、お伊勢さんへの信仰が厚かった証といえる

JRの高架線と高架道路が並走。別種の高架が並んでるの、贅沢な光景

そんな高架道のそばには、昔ながらの信仰がひっそりと息づいていておもしろい

緑が繁茂する川辺にはちょうちょが飛んでおりました。のどか〜

かなり植物の侵食を受けている箇所も見受けられ、廃墟感があってたまりません

JR比叡山坂本駅前に戻ってくると、昨日見た「穴太の石積み」をテーマにした公園が。日吉神社あたりでたくさん見れはするけど、駅前で見れるのも助かる

南下してJR大津京駅へ。「大津京」という名前からわかるとおり、かつて飛鳥時代に5年ほどだけ都があった場所。ということを、駅に着いてこの展示を見てようやく思い出しました。そして古い駅名標のフォントが良すぎる

駅を出て歩いていると、でました石造りの道標。神宮道というのは、近隣にある「近江神宮」を指してる様子

本日のお目当てはここ、びわ湖大津館。ご覧くださいこの外観!すごい。遠目にちょっと見えただけで大興奮してしまった

こちらは1934(昭和9)年に建てられた旧琵琶湖ホテル本館を改修し、レストランや文化施設として保存されている建物。デザイン的には京都・祇園の帝国ホテルを思い出す雰囲気
そもそも「外国人観光客を日本に呼び込むための、国の観光政策の一環として建設」されたらしく、だから和洋折衷な外観なんやな。ヘレン・ケラーも宿泊したことがあるらしく、最近では映画「国宝」の撮影地にもなったとのこと

当時ものの立派な鬼瓦。大津京が造られた時代からここ大津では瓦作りがさかんになって、寺院が多く建設されたこともあり瓦の産地になったらしい。穴太衆の石積みと同じで、必要とされたから発展した産業やったんやな

和風な外観から一変、内装はアールデコな洋風。階段も手すりも照明器具もクラシカルな雰囲気でうっとり

広々としたロビーには昔の写真が展示してあったりショップがあったり

柱時計も見事

昭和32(1957)年に設置されたエレベーターが、現在も稼働中。上部の停止階表示も当時のままらしく、たまらんフォント

外にはイングリッシュガーデンも。足元の千鳥柄のタイルに円柱、まるきり映画のワンシーン

扉もこだわりを感じるデザイン

こちらの足元のタイルもすごい

かつてダンスホールや宴会場として使われていた部屋。照明器具に、行灯っぽい和の雰囲気を感じる。そして格天井の贅沢さたるや。今こんな手間のかかる天井ぜったい造らんもんな

中二階になにやら小さなステージっぽいものが。ここでオーケストラやバンドが演奏していた、と言われているけど館内の説明書きでは「用途は定かではありません」となっており、ミステリアスな雰囲気

わざわざ真紅のカーペットが敷かれてるのも格式を感じます。そしてフローリングの木組も美しい。寄木張りというらしい

階段途中の鏡、シンプルで上品

二階からバルコニーに出る扉。けっこう天井が低く、当時の日本人はまだしも外国の人たちは屈まないと通れなかったかも
そしてドア枠の内側には「唐草飾り」と呼ばれる、唐草紋様の透かし彫りが。建物改修前にはほとんど失われていたけど、残されていた建具から復元したらしい。受け継がれる匠の技

バルコニーから見る、二階と三階。欄干や屋根まわりは和風で、窓や柱、床は洋風なので、かなりおもしろい

そしてバルコニーからは琵琶湖を一望。ここに建てられた理由もわかるってなもんです

非常にテンション上がったのがこちら、かつての浜大津駅周辺を再現したジオラマ模型

浜大津駅は、現在のJR湖西線が開通する以前、大津から今津までを結んでいた「江若鉄道」の駅。昭和44(1969)年に廃線となったローカル線

味わいがありすぎる当時の浜大津駅の駅舎。実はこのあたりに廃線跡があることは事前に知っていたんですが、今回は他にも行きたい場所があって廃線跡探索ができなかったので、ここで昔の様子が見れて非常にラッキー

それにしても精巧なジオラマ、駅周辺の交通広告も再現されています。思わずじっくり見入ってしまった

階段の吹き抜けを飾る照明器具と、窓からの景色にも目を奪われる

三階からの眺めも当然抜群

今は昔の資料や写真の展示室となっている部屋からも、庭園や琵琶湖の眺望ばっちり。夜景もきれいでしょうね

戦前、国際観光ホテルとして賑わっていたここ旧琵琶湖ホテルは、戦後は米軍によって接収され軍関係者の保養地として利用されていたとのこと。地図を見れば、他にも日本あちこちの高級ホテルが接収されていたのがわかる

米軍管理下時代のホテルのバー。メニューも英語で表記され、まるでアメリカにいるかのよう

ここから少し北上した琵琶湖沿岸部には、「旧日本海軍水上機格納庫」という、戦時中この地に駐屯していた「大津海軍航空隊」の水上機の格納庫が残されています。が、現在は自衛隊の敷地内にあるため立ち入れず
かつてはこの琵琶湖から、たくさんの水上機や訓練機、戦闘機が発進していったんやなぁと思うと、今は穏やかな湖面の姿も平和の象徴としてありがたく感じる

本職が広告業なのでついつい見てしまうパンフレット類。琵琶湖側から見た旧琵琶湖ホテルの姿が壮観

あれっ、これ昨日、雄琴温泉でも見たぞ!となったクセありフクロウ花瓶。地元・大津市の焼き物である「唐橋焼」とのこと
めちゃくちゃ良いブルー。焼き物で青を出すのって難しいらしいが、愛媛県の砥部焼も深みがあって美しいブルーで、自分土産に買った砥部焼のコーヒーカップ、今も愛用してます

やっぱり文豪たちも泊まっていた琵琶湖ホテル。こういう場所で長期滞在してたら、いい物語書けそう
旅しながら執筆するの憧れるというか、叶えたい夢のひとつと言ってもいいかも。去年、ステのジャムツアーで横浜に滞在していた期間、仕事しながらだったんでMacbookを抱えて参戦しており、山下公園のベンチでキーボード打ってた時は「旅しながら執筆してるぅ〜」感あってテンション上がったものです

ロビーのフロントには、なんとも重厚なキーボックスが。昭和9(1934)年の開業当時から残る年代物。川端康成や三島由紀夫もこれ見たんやなぁと思うと感慨深い

その隣りには外貨両替所も残っており、国際ホテルだった頃の名残を感じさせる。この鉄柵もかっこええ

当時の看板やルームキーも

開業当時メインダイニングだった場所は、空間そのままに現在もフレンチレストランとして営業中。せっかくやし一服していこうと思ったら、この日は貸切なのか予約でいっぱいでした。今も多くの人にこの空間や提供される味が愛されてるんやなぁ

びわ湖大津館をあとにして駅への帰り道、ニャーンを発見。そんなとこに座って腹はジャリジャリせんのかニャーン。でも猫ってけっこうジャリジャリしたとこ好きというか、実家の猫も先代猫もジャリジャリした場所好きやった思い出

遅ればせながら本日のマンホール。昨日見たデザインよりも、さらにゴチャつきが増している!すげえ!今まで見てきたマンホールの中で一番ゴチャついてるかも。個性豊かで最高

次は京阪大津京駅へ。高架化されていたJR大津京駅とちがい、地べたを走る京阪電車の駅舎はなんとも風情ある佇まい

一駅南下して、大津市役所前駅を出たら即「キター!」となってしまった建物。地方都市の役所や公共施設がたまにイカついぐらいカッコイイ建物あるある、最近でいうと群馬県・高崎で見た音楽ホールや、もはや殿堂入りといえる愛媛県・大洲の市民会館など

時計塔もめちゃくちゃカッコイイんですけど何事?
調べてみるとこちらの建物、建築家・佐藤武夫によって設計され1967(昭和42)年に建てられたものとのこと。「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」にも選定されているらしい

この奥まった吹き抜けのような部分にエレベーターがあるの、ニクいやないか。コンクリート造りでありながら、この柱と梁を強調した「日本の伝統的な木造建築」っぽさがポイントなんだとか。そう言われたらほんまそう。と納得しちゃう私の単純さと建築のすごさ

この地で降り立った理由のひとつは、軍に関連した顕彰碑を見るため。大津市歴史博物館の裏手にあります。プロペラのマークがとても良い

敷地には「陸軍」と読める、なにやら境界石らしきものが。ここ大津には、前述の「大津海軍航空隊」のほかに陸軍も駐屯しており、この場所はまさに「陸軍歩兵第九連隊」の兵営があったエリア

そして1943(昭和18)年に、「大津陸軍少年飛行兵学校」が開校した地。「少年」という名前のとおり、15〜16歳の若者たちが訓練を受け、8千人ほどが出撃していったとのこと。終戦までのたった2年間でこの数字なので、当時、いかに兵士の数が逼迫していたかを感じさせる

そして戦後に建立されたのが「若鷲の碑」。この地から飛び立った少年兵たちの中には特攻隊員として命を落とした人たちも多かったらしい。「若鷲」という名前に、若くして死んだことへの哀惜と、彼らが汗水垂らして学び訓練に励んだ、ある種の青春の日々も詰まっている気がする
私の大叔父も戦艦大和に乗艦して戦死したのが数え19歳で、つまり17〜18歳の時。そんな年齢で戦地に放り込まれるなんて、現代じゃ考えられんし、「考えられん」といえる今の時代に感謝

「若鷲となって大空に巣立ち、北辺の空に南溟の果てに、本土防衛のさきがけとなって愛機と生死を共にした。」という言葉が印象的。共に学んだ戦友たちが、あちこち散り散りになって命を落としていったんやなぁ

せっかくなので歴史博物館の方にもお邪魔しました。昨日訪れた、比叡山のお膝元である坂本がかなり広い土地持ってたとわかる。真継伸彦の「鮫」で学んだが、中世では比叡山延暦寺がマジでめちゃくちゃ権威と勢力と領土を持ってたらしいので、なるほどなという感じ

関ヶ原の合戦後に、徳川家康が大津城に入って戦後処理おこない、禁止事項を言い渡した文書。狼藉をおこなうな、放火するななど。この当時って全国民で共有する「日本国憲法」みたいなのがないわけやから、こうやって各地域で法律を公布してたんやと思うと、大変なお仕事

昨日まさに歩いた「穴太の石積み」ストリートのジオラマ発見。道ゆく人の服装は変わっても、景色はそんなに変わらない感じがして嬉しい

おもしろかったのがこれ、歌川広重が描いた浮世絵「近江八景」の展示。天井ぶち抜きの広い空間を使って、「近江八景」の絵と、それが描かれた土地がジオラマで示されています。こういう迫力ある展示を見れるのは現地ならでは

幕末より前って、何か起こるたびに年号がころころ変わってたわけですが、そもそも年号が変わったよって庶民はどうやって知るわけ?今みたいにテレビやラジオやネットがあるわけじゃないのに?という疑問に答えてくれた文書。町奉行→代官→町代→各町へと伝わっていたとのこと
ちなみに「町代」というのは、地主や町人たちが雇っていた「書類作成や事務手続きをおこなうプロ」のことらしい。昔は「代書屋」という職業があって、私の祖母の伯父さんがかつて大阪で代筆業をしていたという話を祖母から聞いたことを思い出した

これは「鑑札」と呼ばれる、江戸時代における各商売の営業許可証。いろんなデザインがあっておもしろいし、その商売に見合ったフォントって感じで楽しい
そもそもこんだけいろんなお店があるのも、東海道で最大の宿場町だった大津ならでは、とのこと。琵琶湖の物流拠点でもあり、人と物の行き交う土地だった大津の賑わいが、これらの木札からも感じられる

企画展として戦時中の暮らしのものも。こちらは空襲などの火災時に消火に使われていた砂弾

昨日の坂本ケーブルカーもそうだったように、各地の鉄道や寺の鐘や庶民の台所用品まで供出の対象となったほど鉄不足だった戦時中、アイロンや鍋が陶器製に置き換わったのはもちろん、地雷や手榴弾まで陶磁器製が登場。持ち運ぶのめっちゃ重そうやけど、兵隊さんらは実際どう思ってたんやろ。ないよりはマシって感じなんかな

戦争プロパガンダの絵はがき。真ん中のデザインが秀逸、一本の釘が戦闘機にも銃口にもなるという示唆

琵琶湖周辺には軍だけじゃなく、民間の飛行機訓練所もあったとのこと。遊覧飛行の訓練をしていたのに、ついには特攻訓練もおこなわれるようになったという

大津京についての展示もありました。こちらは発掘調査による復元模型

こんな発掘跡から、「ここにこういう建物が建っていて、これぐらいの規模の都だったのでは」って推測できるの、すごい。発掘する人もすごいし、分析して推測する人もすごい

そしてこんなものも。「オンドル」というのは朝鮮半島の床下暖房システムのことですが、これも実は祖母から聞いたことがありました。祖母は戦時中、家族と朝鮮に住んでいて、よく「朝鮮人の家に遊びに行ったらオンドルがあった」って話をしてくれてたので、ここ大津でまさかそのオンドルを目にするとは思わずビックリ
こちらのオンドルは、穴太遺跡から見つかったもので推定7世紀前半のもの。朝鮮半島からやってきた渡来人たちが暮らす巨大な集落があって、瓦作りや石の加工技術を伝えてくれたそう。それがのちに大津の名産になったんやから、ありがたい話

そして滋賀の大津といえば、私もかつて歩いた琵琶湖疏水のスタート地点!当時の写真が見れてラッキー

こんな風に、人の手によってあのデッカイなっがい疏水が開削されたんやから、本当にすごい労力

こうして私の夏の旅は幕を閉じました。風俗街に始まり、名ホテル、戦跡、かつての都と、大津の歴史にたくさん触れられて楽しい旅でした

おしまい



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