千葉2日目。JR銚子駅に行くと、ホームがつながってる銚子電鉄からちょうど電車が出るところだったんですが、一歩遅くて姿をとらえられず!ずっとすれちがい!ぐぬぬ、次を待ってろよ銚電
銚子駅から今度は総武本線に乗り込み、昨日の成田線とは逆側をぐるっと回って到着したのが佐倉駅。こちらにも古写真が展示してありました。素朴な初代駅舎、良いですねぇ
佐倉は城下町として栄えたらしく、武家屋敷が立ち並んでいた通りが残されてました
武家屋敷自体はほとんどなくなってるけど、この土塁や生垣を見るだけで、立派なお屋敷が並ぶ通りやったんやろなぁと想像できる
そしてこんな説明版を発見。大日本帝国下における陸軍歩兵第二連隊の兵営がここ佐倉にあって、佐倉連隊とも呼ばれたようで、その連隊長のひとりである児玉源太郎の借家があった、という話。児玉源太郎は幕末の箱館戦争や西南戦争にも参加したとのことで、幕末好きとしては非常に関心が高まります。しかも佐倉連隊っていうのがあったんや、とこの辺りから私の佐倉探索の目的が変わってくることに
こちらは武家屋敷通りに残る、佐倉藩士2家分の敷地を利用した「侍の杜」。当時の武士の生活が感じられます
入ってすぐにあるのが前庭。こちらは来客を楽しませる趣の植栽ですが
一方こちらは屋敷奥の裏庭。梅、柿、ゆず、びわなどの実がなる木が植えられ、見目の美しさよりも食用優先の植栽だったんだとか。けして客人の目には触れないように動線を工夫しつつ、近隣の農民を雇って裏庭で畑を耕し、苦しい生活の足しにしていたとのことです。なんかとっても「龍が如く 維新」の斎藤一というか坂本龍馬というかの生活を思い出すなぁ〜〜よし、犬と猫も飼おう
庭をゆっくり散歩していると、隣の敷地には崩壊しかけの家屋が。こういう立派なおうちがたくさん建ってたんやろな
そして武家屋敷の敷地内にも、軍人さんの痕跡が。佐倉市生まれの海兵、貝塚武男の借家がここにあったとのことで、経歴を調べたら戦艦陸奥や長門にも乗艦、最後は空母瑞鶴の艦長としてマリアナ沖海戦に参加し、沈没する瑞鶴と運命を共にし戦死。私の大叔父は戦艦大和に乗艦して今も大和とともに海の底なので、他人事とは思えない
任務中はなかなか帰ってこれんかったやろけど、ここから眺めた佐倉の景色を懐かしく思うこともあったんじゃないかと。みんな最期は何を思って戦死していったんやろう
武家屋敷から佐倉城址へと歩いてくると、藩校跡を発見。藩校があったというのは、藩の行政や街の仕組みがしっかり機能していた証拠なんやなと、あちこち歩いて感じるようになりました。教育に金や人手を割けるっていうのはすばらしいこと
藩校からすぐの場所に、かつてはこんな立派な大手門があったらしい。しゃちほこまでいます。すごい
こちらは佐倉城の空堀。そしてチーバくんのガード。こういう道端のガードにわざわざキャラクターがデザインされるのも日本ならではとかで、外国人の方が注目してらっしゃった。あと駅のホームにある電光掲示板で、電車の接近を知らせる時に電車がドットイラストでえがかれてたりするのも、日本的なんだとか
それからこの写真にも映り込んでますが、この日やたらと街中で消防車やレアな緊急車両を見かけ、なんかあったんかいなと思ってたら、どうやら消防署の出初式が開催されてたようで
佐倉城址公園の広場にはズラリと!各地から駆けつけた消防車が集まってたし、音楽隊による生演奏もありました。すごいなーと感心しつつ、私が向かった先はというと
広場のすみっこにひっそりと佇む、佐倉兵営跡の碑。佐倉連隊は大日本帝国下で最初に発足された歩兵連隊のひとつで、千葉県下の若者を中心とした郷土部隊だったとのこと。首都東京の防衛のため、東は佐倉、北は高崎に連隊を置いたらしいです。そう考えるとたしかに、この地が重要な軍事拠点となったのもうなずける。そしてここから多くの若者たちが中国、グアム、レイテ島などに送られ、生きて再び故郷の土を踏むことが叶わなかった
連隊の遺構がけっこう佐倉城址のあちこちに残ってる様子。本当に城跡を活用して陸軍の営所が造られてたんやな
こちらは佐倉城の様子。石垣を造らず、印旛沼を外堀の一部に利用していたらしい。曲輪や堀がたくさん残っているようで、城郭好きにはたまらんやろな
遅ればせながら佐倉市のマンホールです。芸術性が高い。アヤメと桜。街を歩いててやたらマンションや建物に「チェリーなんとか」って名前が多いなと思ったら、佐倉=桜にちなんでるんやな!と急に気づきました
こちらは城跡に残された連隊遺構のひとつ、兵士訓練用の12階段。なんもない場所にポツンとあるので、かなり異質な存在感
階段を登って向こう側に飛び降りるのかと思ったら逆だった。駆け上がったり駆け下りたりするトレーニングにも使われたのかな
横から見るとかなりの急階段。これは登り降りするだけで大変そう。何人の陸軍歩兵たちがこの階段を踏み締め、その中の何人が生きて帰ってこれたんやろう
お城から旧街道を歩いてて見つけた桜柄の郵便ポスト、と自然と映り込む消防車。もうほんまにあちこちで消防車が走っててすごかった
かなり良き雰囲気の神社があったのでお参りに。「麻賀多(まかた)神社」という変わった名前、総本社は成田にあり、印旛地域ではポピュラーな神社らしい。関西では全然聞いたことがなく、社名にも地域性があっておもしろい。名前の由来は「真賀多真(勾玉)」からで、一帯が麻の産地だったから「麻賀多」になったとのこと
境内はそんなに広くないけど、年始ということもあってか参拝客がたくさん。佐倉藩の総鎮守だったらしく、今も地元の方々に大切にされているようです
見逃せなかった兵士たちの碑。戊辰戦争に始まり、太平洋戦争で戦死した方々の慰霊。江戸時代に藩が置かれ、明治以降は陸軍歩兵連隊が駐屯したこの地では、軍や兵隊さんという存在は親しみ深いものやったんやろな
お参り後、旧佐倉街道をさらに歩いてると、良き雰囲気の隧道が。名前もないトンネルやけど、生活には欠かせない感じがしてとても良い。JR甲子園口駅の小さすぎるトンネルみたいに
右上の方を走っているのが現在のメインロードである県道、それに比べて私が歩いている旧街道は、自然の地形とともに曲がりくねった狭めの道で、旧道らしさを感じられます。そして意識しなくても映り込んでくる消防車。もはや笑えてくる。消防士のみなさん、年始早々お疲れ様でした
旧街道沿いには湧水も。こんなところから急に湧いてるわけじゃないやろから、どっか山から引水してるのか、それにしても住宅地に湧水があるとはすごい。現在は飲用・常用ではなく防災井戸となっているようです
駅の手前で橋を渡りましたが、ここには昔から欄干の付いた立派な板橋が架けられていたそうで、他はたいがい簡素な土橋だったそう。板橋はここと佐倉城前だけだったとのことで、いかに重要な道だったかがわかります。かつての村祭では、さきほどお参りした麻賀多神社から神輿が出て、この場所で神楽が舞われたんだとか。良い風景やったやろなぁ
駅前の街灯、やはりアヤメと桜の柄でかわいらしい
こういう謎に階段などが入り組んだ構造大好き、ワクワクする
歩き疲れたので駅舎で休憩がてら、佐倉銘菓の「蔵六餅」をいただきました。もなかの中にたっぷりあんこ、しかも季節限定の栗入りで美味しかった
そして佐倉駅から成田空港まで電車で戻り、さらに空港からバスに乗ってやってきたのがこちら、航空科学博物館、ではなく
野外に展示された数々のかっけぇ航空機類、でもなく
目的はこちら、航空博物館のそばにある成田空港の歴史館。成田空港は建設時、空港関係者にとっても地元住民にとっても苦心と悲哀と暴力に満ちた「成田闘争」という反対運動の歴史があり、今なお続いている社会問題でもあります。YouTubeでざっくり学びはしたけど、せっかく成田空港を利用するわけやし、現地で現物の資料を見たいと思ってやって来ました
成田闘争、または元々の土地名からとって「三里塚闘争」と呼ばれる反対運動のややこしさのひとつは、空港建設予定地となった場所に、古くからの村の住民、戦後の開拓農家、沖縄からの移住者など、いろんな方々がいらっしゃったこと。古村の住民はもちろん、開拓民たちも過酷な状況を生き抜いて土地の権利を勝ち取ってきたため、土地への執着が強かった。そして宮内省が管理し皇族の方々も訪れる御料牧場もあった
沖縄出身者が、国有地の御料牧場に入植したいと申し出た願書。沖縄は唯一の本土決戦地、戻りたくでも沖縄に戻れない人たちは多かったやろうな
時は戦後の高度成長期、急速な経済発展と大量輸送時代の到来によって、羽田空港はすでにパンク状態。さらなる国際空港の建設が必要だった。新空港建設にはいくつか候補地があったものの、やはり反対運動が起こり、水面下で千葉県の三里塚はどうかという案が進められていたらしい。三里塚に住む貧しい開拓民相手なら、土地を高く買い上げてやればいいだろう、という思惑があったとか。そして住民への意見聴取もないまま、三里塚案が閣議決定された。三里塚の住民にとってはまさに寝耳に水、そりゃ反感も買うわなっていう
住民たちはあの手この手で反対運動をおこなったようで、たとえば一本ずつの木の権利を住民1人1人が買うことで、土地の買い上げを難しくしたりしたらしい。初期の反対運動はこういう農民主体のデモや陳情やったわけやけど、共産党や社会党、さらに新左翼やら反戦運動家やらが合流することで、激化の一途をたどっていった。おそらく農民の方々の本来の想い、先祖代々の土地を守りたい、自分の手で開拓した土地を奪われたくない、そういうところからかけ離れた、政治目的や別の思惑に利用されてしまったのかな
ついには警察や機動隊が出動。土地の買取や測量のために訪れた空港建設関係者も、命の危険を感じながらの仕事だったとのこと。建設側だけじゃなく、住民側でも、土地を手放すことに決めた人たちが反対派から村八分にされたり嫌がらせを受けたという記事が、当時の雑誌に掲載されてました
三里塚闘争は、いろんな時代背景も絡んでくるから大変複雑。安保闘争をきっかけに学生運動が盛んだったこともあって、全学連も合流し、もはやカオス状態。とくに新左翼の介入によって、一気に反対運動は武装闘争化していったと
非常にグッときた展示品のひとつ、「木の根の土」。木の根という土地に住んでいた女性は空港建設を受け入れ、別の場所へ移転した後に亡くなって、彼女の押し入れから出てきたのが、木の根の土とそれに巻かれた「空港絶対反対」の鉢巻。きっと最初は建設反対してて、でもどっかで受け入れて土地を離れた、それでも忘れがたい故郷、忘れがたい想いを、押し入れの中にしまってたんかな
警察の札がついたまま返却された反対派のヘルメット。この持ち主も、どういう思いでヘルメットをこの状態のまま置いてたんやろか
少年ジャンプにこんな記事が掲載される時代。現代からは考えられない。それだけ社会問題や政治的課題に関心が高かったとも言えるし、逆にこうして反対派の意見行動だけを賛辞するのは洗脳的というか、偏った知識や印象を若い読者に与えることになるというか。「そういう時代」と言ってしまえばそれまでやけど、今の日本とはあまりに国や社会全体の空気が違ってたんやろな
代執行によって住民から強制的に取り上げられた土地、ばりばり滑走路周辺で、代執行のおかげで私は成田空港に降り立てたんやなと思うと大変複雑な気持ち。しかしこういう事実を知っておくだけで、空港を利用できるありがたみをしみじみ感じられる
建設用ブルドーザーに対抗するため、自ら穴にはまりこんで抗議する反対派。まるで天安門事件で戦車の前に立ちふさがった男のよう
反対運動の象徴だった団結小屋、もはや砦。こちらも代執行によって強制撤去
おそろしい文字が一面を飾ってます。ついに機動隊員に死者が出て、この辺りから世論も反対派への同情が薄れ、いや反対派ちょっとやりすぎやろという論調に変わったらしい
反対派たちのヘルメット。反対派のなかにもいろんな派閥や団体があったとのこと
火炎ビンを当然のように装備してるところがおそろしい。普通に殺傷武器
各地にあった団結小屋=活動拠点。多い時で20〜30箇所あった模様。社会党やら赤軍派やら安保共闘、ベ平連=ベトナム戦争反対派やら、いろんな組織が関与してしっちゃかめっちゃか。反対派も一枚岩じゃなかったことがよくわかる。そもそも左翼も分裂しまくってるし
そして空港開業直前には管制塔が占拠され、機器類が破壊される事件も。屋根の上に避難してるのは空港関係者。これによって開港が延期になったうえ、空港連絡線である京成電車が放火されたり列車妨害がおこなわれたり、新左翼主導による暴動や破壊行動は過激さを増した。ほんまに今の日本じゃ考えられんアグレッシブさ
ようやく開港を迎えた日、記念すべき一番機は、反対派が燃やす古タイヤの煙をかいくぐって着陸したとのことで、とくに天候不良でもないのに飛行機乗るのに毎度ビビりまくってる私はまこと自分が情けないというか、もっと航空関係者の方々を信頼せぇよと
開港後、ようやく反対派と大臣たちの話し合いがおこなわれたり、政府が正式な謝罪をしたことで、少しずつ相互理解と和解が進んでいき、1992年には第2旅客ターミナルが開業。私はこの日、まさに第2ターミナルから飛び立って大阪に帰る予定だったので、こうした和解のおかげで私も飛行機使って大阪に戻れるんやなぁと感謝
反対派も分裂し、和解や移転を受け入れた方々もいれば、今も抵抗を続ける方々もいる。7期には団結小屋が残されているし、そのため滑走路で飛行機が迂回をおこなっている場所もある。2023年には反対派やぐらの強制撤去がおこなわれ、機動隊員らと妨害する反対派が衝突、逮捕者も出ている
三里塚闘争の原因はけっしてひとつではないし、当時の安保闘争、ベトナム戦争反対運動、学生運動といった社会背景や、多岐のグループの参入によってそれぞれの思惑が絡み合い、めちゃくちゃ複雑な話になった。でも根幹の部分はやっぱり、地元住民たちの「突然土地を取り上げると言われても納得できない」「きちんと説明をして合意を得てほしい」「自分たちの存在をないがしろにしないでほしい」という、切実な願いだったんじゃないかと思う。誰だって嫌やもん、自分の意見や存在を軽んじられたり、無視されるのって
時間があったらもちろん航空科学博物館のほうも行きたかったけど、もう全然なかった、二時間半ぐらい三里塚闘争に釘付けになってしまい、気づけばすでに夜でした。ライトアップされた博物館かっこいい
天気がよかったので、帰りの飛行機からは大阪市街がよく見えました。三里塚闘争について学び、今「クライマーズ・ハイ」を読みながら日航機墜落事故についてもいろいろ調べてて、改めて空の安全を守ってくださってる方々に感謝。いつもどおり学び多き旅でした
おしまい
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