大分から阿蘇山を横断し熊本で遊ぶ①

2024年1月7日日曜日

t f B! P L

年明け早々の九州行きが決まり、せっかくなので乗ってみたかった船に乗船宿泊してみることにしました。わーい!

夜に大阪南港を出発し、朝に大分別府に到着するこちら、さんふらわあ号
夜に出発する旅ってなんでこんなにワクワクするんでしょうかね!とか言ってたら乗船時間を一時間まちがえてて、あやうく乗り遅れるところでした。本当にあぶない。今まで飛行機と高速バスに乗り遅れたことがあり、あとは船やななどと笑い話にしてたんですが、マジで実現してしまうところでした。シャレにならん

そんなわけでじゃっかん息切れしながら乗り込んだ船内は、めちゃめちゃきれい!さすが2023年にデビューしたての新造船
大阪〜別府航路の歴史は古く、なんと1912(明治45)年から続いてるそう。当時、大分別府の観光需要だったり物流に商機を見出した人たちはすごい。戦中戦後は大陸からの引揚者を乗せていたこともあるらしく、うちの祖母も満州から引き揚げてきたので、ひと事とは思えん感じ

3フロアぶちぬきの吹き抜け。船内であることを一切感じさせないつくり

この丸窓のとこもクッションがあって、腰掛けて外を眺めることができるようになっててとても良かった

ひろびーろとしたパブリックスペースで、皆さんくつろいでいらっしゃいました

なんと展望浴場がございます。船上で初めて風呂に入れる

本日は贅沢に個室を予約しました。ほぼホテル!

タオル、ハミガキ、部屋着もついてます。ありがたい

トイレと洗面台とシャワーも。船上であることを忘れさせる快適さ

客室エリアの壁には、昔のポスターや記事が展示されていて、広告屋の私ワクワクがノンストップ

こういう古地図もだーいすき!それにしても瀬戸内海は島が多い。すごい


「石炭を焚かぬデーゼルエンジン」という言葉の力強さよ

そうこうしているうちに大阪南港から出航


大阪の夜景を海から眺めるのは初めてだったので新鮮

甲板も人で賑わってました

船内に戻ってみるとギターの生演奏が。老若男女が思い思いに集まって音楽に耳を傾けてるこの光景、なんかすごくよかった。また演奏曲が千と千尋の「いつも何度でも」だったりしてね…生きている不思議、死んでいく不思議、花も風も街もみんな同じ……

船内のデジタルサイネージでも昔の資料がみられる仕様。大正15年といえば祖父が生まれた年。すごい歴史やなぁ。紙媒体で読みたい

なんか興奮してしまう系統樹

そろそろ明石海峡大橋が近いとのことで、再び甲板へ。橋がレインボーに光っております

それにしても風がえげつなくて、スマホをまっすぐ構えられないレベル。まともに写真が撮れなさすぎて笑うしかなかった


ウオオ近づいてきたー!と思ったらやっぱりブレる!!風圧!!!


明石海峡大橋は実家から見えるので別段めずらしくもないけど、その桁下を船でくぐるという経験はなかなかレアなので大変たのしい

でもやっぱブレる!!!!風!風がすごい!

ひとしきり甲板で夜景と強風を楽しんでいたら、船内ではプロジェクションマッピングが上映されてました

乗客を飽きさせない仕組みが考えられてる

お土産屋さんを見てるとカレーが売ってたので、まぁ買うよねっていう。さんふらわあ内のレストランで食べられるカレーのようです。翌日の朝食バイキングできっちり2杯食べました美味しかった

そんなわけで翌朝。窓の外はまだ真っ暗。朝食バイキングもとっても美味しかったです

カレーをおかわりしているうちに、空が明るくなってきました。するとたくさんの船の姿が!

あちこちに見える影がすべて船。すごい。漁船をはじめ、こんなにたくさんの船が朝早くから働いてるんやなぁと感動

船上で見る朝焼けは格別でした

みとれていたらすでに目の前に大分が迫っていた。朝日に照らされた山肌がきれい

接岸作業が着々と進んでいきます。こんなでかくて新しい船も、やっぱり縄をかけて接岸すると思うとおもしろい

もうすっかり太陽が昇る頃、下船が始まり船旅もここで終わり

ありがとう、さんふらわあ。また必ず乗りたいと思わせてくれる船でした

さてゆっくりはしていられません。なんせ地方の電車は一本逃せばえらいことになると学習済みです。港から急ぎバスに乗り込んで別府駅へと移動し、まずは日豊本線で大分駅へ

別府湾沿いを走るので車窓が一面の海。いい景色

大分駅で今度は豊肥本線に乗り換えます。豊肥本線は大分から阿蘇山を越えて熊本に至る、九州横断ルート。まさしく「九州横断特急」という名の列車や、「あそぼーい」というユニークな名前の観光特急も走ってますが、今回はあえての鈍行を使って、まずは三重町行きに乗り込みます

山間の狭いスペースを進んでいく感じ、めっちゃかっこいい

両側がほぼ崖。こんな山深いところを切り開いてきた鉄道の力や歴史を感じてしまう

豊肥本線の駅名標は、その土地の名産品も教えてくれるタイプ。やっぱ大分といえばの椎茸

三重町駅の跨線橋には、熊本地震の時の被害状況を伝える写真が展示してありました。ものすごい土砂崩れ。この状態から復旧したなんてすごい。どれだけ多くの人たちの努力があったのか…

そしてまずは第一の目的地、豊後竹田に到着。滝廉太郎が幼少期を過ごした場所として知られ、駅名標にも代表曲「荒城の月」がえがかれてます

駅のホームに降り立つと、とてつもない岩肌をさらす崖が目の前にあって圧巻

駅舎と景色がマッチしてます

駅の観光案内所が閉まっていたので、近くの温泉施設に付随した観光課みたいなところにお邪魔して荷物を預かっていただきました。この建物も非常に風情がある。そして開店したばかりなのに次々と地元の方っぽいお客さんが入っていってました

身軽になったので町歩きを開始します。竹田は名水の町でもあるらしく、駅近くには川が悠々と流れ、水面が冬空を写して見事な風景をつくりだしてました


堤防のところに何かレリーフがあるなと思ったら、竹田の町並みのよう。橋や家々や山林、遠くにはかつてあった岡城もえがかれ、かなりの迫力。かっこよかったなぁ、これ

その目の前の川縁には、ある警官の名前が彫られた殉職の碑が

さらに近くの稲荷神社にも別の警部の碑があって、周囲に説明板もないのでよくわからなかったんですが、あとでググってみたら西南戦争で殉職した方らしい。この辺りは西南戦争の激戦地のひとつだったとのことで、まったく知らないまま行ってしまった、もっと勉強して行けばよかった

という反省はさておき、すごく気になる稲荷神社の鳥居が山肌を這い上がるように連なっていたので、行ってみました

これがまじでシャレにならん急角度の斜面。今まで岐阜城とか遠野の南部神社とか、これはほぼ山登りですやんって感じの階段のぼってきたけど、さすがに五段のぼって即座に後悔したのは初めてでした

とはいえここで引き返したら二度と来れないかもしれない。意地で足を動かします

中間地点には、岩に掘られたお地蔵さんのお堂が

ようやく辿り着いた本殿も、やはり岩を掘った形。一時期別府に住んでた親友が「大分は磨崖仏とか石を使ったものが多い」と言ってたんですが、地域性があっておもしろい。地理・地質的な関係なんやろな

屋根の上に積もった落ち葉から芽が出てます。大自然のパワーと人工物の融合って、いつ見てもワクワクする

それにしてもとてつもなくデカい岩。大阪城のドデカ石垣みたい

参拝をすまし山を降りて、今度は川沿いを歩き、町の中心部を目指します。なんか水流の制御に関わりそうな、おもしろい形状の何か(何かはわからない)

中心街にやってきました。この雰囲気たまりません

さっそく目に入った味のある看板とファザード。スナック建築物ってなんでこんなに個性があっておもしろいんやろ。見てて飽きない

こちらは現役っぽいスナック、というかそれよりも右目の室外機を見つけ、そっちに関心を引かれました。いまは左目の室外機がほとんどで、右目と出会うのはかなりレア

この上に上にと増築を重ねていった感じ、とても良い

昭和レトロな建物だけじゃなく、もちろん古い木造建築も魅力的

歩いていると、旧岡藩の御客屋敷と書かれたのれんが目に入りました。全然知らずに来たんですが、ここ豊後竹田はかつて岡藩という藩が置かれ、山の上には岡城があり、この辺りは城下町として栄えていたとのこと。なので歴史を感じさせる建物もけっこう残ってます

ところでマンホールが見当たらないなと思ってたら、「電線共同溝」たる文字が

もしやと思って顔を上げたら、やっぱり電信柱と電線がない!景観美化のために地中化してると思われます。高いビルもなく山まで抜けて見えるこの町並み、江戸時代あたりとそんなに変わってなさそうな雰囲気

斜面にたたずむ十六羅漢像、みんな顔立ちがちがい個性があっておもしろい

こちらは滝廉太郎が幼少期を過ごした家で、いまは資料館になってるようです。音楽一家で育ち、名水の土地ならではの水の音や風の音の中で感性を育てていった、そんな滝廉太郎が聞いていただろう音が、この屋敷のなかで再現されてるらしい、のですが時間がなくて後回しにしたら結局立ち寄れなかった

かわりに廉太郎トンネルを通るなどしてみたり。こちらは最初に造られたときの手掘りの様子を、そのまま再現してるそう。機械とかじゃなく手で掘った形ならではのアナログ感やわらかさがあります。中を通るとなかなかの爆音で「荒城の月」が流れる

案内板によるとトンネルの中には、おそらく戦時中に防空壕として使われていたっぽい横穴があったらしい。この穴がそうかはわからんけど、ごうごうと水が流れていて、本当にそこらで水の音が絶えない町。今ってGoogleマップ使えばある程度あちこちの道を見れるけど、音とか匂いとか風とか空気とかってもんは、やっぱ現地いかないとわからないことなので楽しい

廉太郎資料館を一旦スルーしたのは、こちらの歴史文化館に来たかったからでした。2021東京オリンピックのメインスタジアムとなったあのすげ〜屋根の国立競技場を設計したことでも知られる、隈研吾という建築家擁する設計事務所が手がけた建物。「竹」の字を模したロゴがかっこいい

館内には城下町として発展してきた竹田の歴史についての資料がたくさん。引き出しを開けて資料を眺めるって体験もおもしろかった
さらに岡城と町の成り立ちや岡藩の藩主について教えてくれる10分ぐらいの映像があって、めっちゃ楽しかったし感動してちょっと泣きそうになってしまいました。なんていうか明治初期の政治家とかもそうやけど、本当に町や国や人の暮らしをよくしようと努力してたんやなと思って

展示品でおもしろかったもののひとつが、こちらの「サンチャゴの鐘」。岡城が明治維新で廃城となって取り壊されたあと、城内にあった神社から出てきた大きな銅鐘
「HOSPITAL SANTIAGO 1612」と彫られた銘文から、おそらく1612(慶長17)年制作、長崎のキリシタン系慈善院サンチャゴ病院で使われていた鐘で、長崎から岡藩藩主のもとにわたった、らしいのですが、そうなった経緯も理由もまったく謎とのこと。当時はキリスト教弾圧が強まっていってた時期で、この鐘があったサンチャゴ病院も1620年に閉鎖・破壊されていて、さらに竹田の町はキリシタン墓地や礼拝堂などが残っている隠れキリシタンの里だったらしく、おそらく藩主は危険をおしてでもキリシタン文化を守るために鐘を秘蔵したのでは?と推測されるけど、実際のところの真意は現在のところはわかっていない
そういうストーリーを知ったうえで、特別室のなかに安置されてる鐘の実物を見ることができて、しかも室内では「ゴォーン…」って鐘の再現音が鳴り響いて、うおぉ…と大興奮。長崎の病院にあったはずの鐘がなぜ大分の岡城に隠されていたのか、なぜやりとりの手紙など関連資料がまったく残っていないのか、なんともロマンのある謎のキリシタン遺物……

館内には自由に書き込めるボードがあって、竹田のおすすめスポットがいろいろ書かれててほっこりしました。こういうふうに手書きの字で、書いた人、竹田に実際住んでる人を感じられる展示方法はとても良い

エレベーターとつながった先には旧竹田荘という、江戸時代の文人画家・田能村竹田が住んでいた邸宅がありました

南側に崖を背負う立地なので、日当たりが悪くかなり寒いのですが、窓からは竹田の町並みを見渡すことができて、こういう景色を眺めながら田能村竹田も絵を描いたり詩を書いたりしていたのかな

田能村竹田が描いていた絵は南画というらしい。岩肌とかの筆致がすごい

隣接する画聖堂では田能村竹田や弟子たちの作品が展示されてました

田能村竹田、なんかひょうきんでおもしろそうな人。かなりの酒飲みで、大坂生まれの文化人・頼山陽と仲良くなり、頼山陽が豊後に来た時にはわざわざ伊丹の酒を取り寄せ、連日飲み交わしてたそう。田能村竹田自身も諸国を旅する人で、最終的には旅行先の大坂で具合を悪くして亡くなり、大阪天王寺にお墓があるらしい。遠い時代に遠い地で生きていた、自分とは関わりのない人と思っていても、意外なところで自分との接点を見つけられるのも旅の楽しさのひとつ。酒好き、旅好きというのも他人とは思えない

旧竹田荘を出てすぐにあった創生館という観光所。門前の提灯に描かれているのが、藩主だった中川家の替え家紋。「中川クルス」と呼ばれるこの家紋、パッと見てわかるように、なんか十字架っぽくないか?おまえんとこ実はキリシタンちゃうんけ?って幕府に詰められたけど、いやいやちゃいまっせ、これは馬のくつわでっせと言い逃れしていたらしい。中川家が事実キリシタンだったかはわからないらしいですが、キリシタン文化を大切にしてたことは間違いなさそう

その証拠のひとつが、ここ武家屋敷通りを歩いていった先にあります。この道、昔ながらの風情があってめちゃくちゃ良い。今にも向こうから二本差しのお侍さんが歩いてきそう

通りから山の方へ上がっていく途中にあるのがこちら、キリシタン洞窟礼拝堂


洞窟礼拝堂は14世紀ローマで見られるものらしく、日本では他に例がないんだとか

豊臣時代からキリスト教は禁止され、江戸幕府でもその政策を受け継ぎ、1637年の島原の乱以降はより厳しく弾圧されるようになって、岡藩においてもキリシタン狩りがおこなわれたんだとか。そんな時勢にも関わらず、こうして礼拝堂が残されてるということは、よほど隠れキリシタンたちが熱心だったか藩ぐるみでの秘匿・保護があったからでは。おもしろい、おもしろいぞ岡藩!竹田にくるまでは、ここに藩が置かれていたことさえ知りませんでしたが、こんな発見があるなんて、だから知らない街に旅するのはやめられない

そんなわけで豊後竹田駅に戻ってきました。広大な複々線を進む一両編成

ついに豊肥本線は阿蘇山の外輪山を突破し、噴火によってできた凹み地帯であるカルデラに侵入。阿蘇神社にお参りするため、宮地駅で降車します

と、駅に到着した途端、なんともかっこいい特急列車が入線!
この日、豊肥本線を「九州横断特急」と「あそぼーい」が走るのは知ってたんですが、未知の列車の登場に興奮がおさえられません。どうやら「やませみ かわせみ」という名の臨時特急で、宮地〜熊本間を走ってるらしい

この佇まい!ひゅーかっこいい!深緑にゴールドが映える

宮地駅の駅舎も雰囲気の良さでは負けておりません。阿蘇神社の最寄駅だけある
しかしゆっくり堪能する時間はない。次の電車が40分後、そして駅から阿蘇神社までは徒歩で往復30分前後。けっして電車に乗り遅れるわけにはいかないという強い意志のもと、阿蘇神社までの長いながーーい自動車の列を横目に爆速で歩き続けました

そして無事たどりつき目に入ったのは、阿蘇神社の立派な楼門!これも全然知らなかったのですが、2016年の熊本地震で楼門をはじめ境内のほとんどが全壊、そこから7年以上かけてようやく復旧したのが2023年12月。つまり再建したばかりの楼門を見れたわけです。とんでもなくラッキー!駅で出会った特急といい、これは阿蘇の神様がもたらしてくれた恩恵やな。考えてみれば私にとって2024年初詣でもありました

めちゃくちゃ立派な扁額。人ぐらいの大きさがある

建て直された拝殿も美しい

再建したばかり、かつ新年ということもあって、境内は大変にぎわっておりました。そして遠くそびえる外輪山。とても良い景色だ……と思いながらもじっくり味わっている暇はなく、爆速で帰途につきました

こちらが参道でしたか…と帰りに気づき、鳥居で一礼

駅までの帰り道に見つけた、かわいい模様のガラス。もうちょっと宮地の町もゆっくり歩きたかった、阿蘇のジャージー牛乳でつくったアイスとか阿蘇あか牛のハンバーグとか食べたかった。本当のこといえばすべての駅で降りて、辺りをうろちょろしたい

それにしても宮地駅での一両編成と外輪山の見える景色は大変風情があります

どこにいてもカルデラを囲む山々が見える。そしてこれが元はひとつのでっかい山だったと思うと、なんかもう途方もないし、それを噴火でぶっ飛ばすという星の莫大なエネルギーを感じる

ここからは赤い車体に乗り込み、熊本方面を目指します

車窓の景色が抜群にいい。夕暮れどきの良い時間帯に乗ったからなおさらです

子供の頃からずっと海が好きやけど、大人になって山の景色というのがとても好きになりました。あちこち旅してて、日本ってほんまに山が多くて、山とともに生きてきた民族なんやなって感じるようになったのもあるかも


夕陽に染まった山肌、ずっと眺めてられる


すごいかっこいい高架道路が見えてきた

お客さんがたくさん乗り込んできた立野駅。ここで列車のスイッチバックがおこなわれました

ようやく本日最後の目的駅、肥後大津に到着。それにしても豊肥本線の駅名標、どこもかっこいい。地名とか名前の由来が気になるタイプのオタクにやさしい仕様。関西人の私からすると大津といえば滋賀なんですが、まさしく滋賀の大津に由来するとは

肥後大津駅は阿蘇くまもと空港の最寄駅でもあるため、駅舎は大変現代的。岩手県にある花巻空港駅のあまりに素朴な駅舎を見たせいで、全国の空港駅という名を冠する駅が気になってしまう

本日のお宿はこちら、昭和感漂うドデカ観光ホテル

その敷地内には、平安時代から南北朝時代にかけて一帯を支配していた菊池氏最後の当主の墓がありました。ホテルの敷地内に墓があるって斬新。わりと嫌がられそうな気もしますが。ホテルとか宿泊所ってそれでなくてもオカルト的な、幽霊的な噂とか立ちやすかったりするので。それほど菊池氏の存在がここでは偉大ということやな

夜は地元のおいしーーい居酒屋でいつどこで飲んでもうまーーいビールをいただきました

熊本といえばの馬刺しを堪能しました。おいしかったーー!

次の日につづく!

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